なぜ、自分の生き方を押し付けてくるのか?
世間には、自分の生き方(価値観)を押し付けて来る人、というのが存在する。
例えば、以下の言葉のうち、
ひとつくらいは言われたことがある人が多いのではないだろうか。
「結婚しないの?」
「子供はまだ?」
「子供は絶対に産んだ方がいいよ」
「一人っ子はかわいそう」
「男女どっちも産んだほうがいい」
等々である。
私が女性なので、結婚や出産の話題が多くなってしまったが、
男性の場合でも、何か自分の人生に口を挟まれる経験があるのではないだろうか。
私は、このような人々のことを、正直不快だと思っている。
私の人生なのだから、好きに生きさせてくれと思う。
また、私は既婚者だが、他人に「結婚の素晴らしさ」等を啓蒙する気にはならない。
たまたま結婚したので、その選択を正解にするべく、
自分は結婚してよかったと思われる人生を送ろうと決めている。
しかし、それはあくまでも私の人生の中での話であって、
結婚≒幸せとは思っていない。
そもそも、幸せは何かのアクションで生まれるのではなく、
今この瞬間の、なんでもない日々の中で気づくものと考えている。
だから、独身を貫くという人がいても、結婚を無理に勧めようという気は全く起こらないし、
私は伴侶のいる人生を選んだため、一生独身ってどんな感じなんだろう?
それはそれで楽しそう!どういう生活なんだろう?
という興味さえ湧く。
こういう思考なので、他人に結婚や出産等の生き方を押し付けてくる人々が、
なんでそこまで言ってくるのか、理解ができなさすぎて、
一周回って興味が湧いてしまった。
私なりに深く考えた結論としては、以下の通りである。
自分の人生を自分で肯定できないので、
他人が自分と異なる生き方をしていると、自分が否定されたように感じる。
→自分と同じ生き方を勧めることによって、自分を肯定したい。
まず、自分の人生に本当に満足していれば、
他人の人生にゴチャゴチャと口出しする気にはならないのでは、と考えた。
例えば、カフェに行ったときとして、絶対にひとつのパフェしか選べないとする。
自分は抹茶のパフェを頼み、隣の人はいちごのパフェを頼んだとして、
抹茶について本当に好きで価値を感じているのならば、隣の人のいちごは気にならないはずだ。
しかし、そこまでの思いはないので、いちごが気になって仕方がない。
いちごを選んだ人が、自分よりも心から美味しそうに、パフェを食べていたり、
やっぱりいちごにしておけばよかった、抹茶は思ったよりも美味しくなかった、
などの気持ちがあれば、
自分を正当化したい→隣の人に対して、抹茶の素晴らしさを押し付ける。
という理屈となる。
…書きながら、これよりももっといい例えがある気がしてきた。
他にもっといい例えがあるなら、教えて下さい笑
「自分の人生を自分で肯定できない」というのは、完全に他人の問題であって、
こちらが巻き込まれる問題では決してない。
今後、私の人生にゴチャゴチャと干渉してくる人がいたとしたら、
「自分の人生に自信がないんだなあ、可哀想に。」などと考えることにする。