彩りサプリ

人生に、彩りを。

0→1にする大切さ/「継続」のコツ

「継続は力なり」

そう頭ではわかっていても、なかなか実践できない人は、少なくないのではないか。

少なくとも、かつての私はそうだった。

英語の勉強、家計簿、日記…etc、3日どころか、2日も続かなかったこともある。

しかし、一念発起して、減量のために始めたフィットネス・筋トレは、

当記事を書いている2020年8月現在で、1年7ヶ月続いている。

思いのほか、のめり込んでしまい、

今年の4月からパーソナルトレーニングジムに勤務するなど、仕事にまでしてしまった。

この経験から学んだ、継続のコツをシェアしたい。

 

まず第一に、「自分の力を過信しないこと」が大切である。

例えば、今日からダイエットスタート!

毎晩糖質を抜いて、1時間筋トレをするぞ!と意気込んで、続かなかった経験はないだろうか。

意気込む時点では、その行動を、自分は毎日できると思っているので設定している。

しかし、見積もりが甘いため、続かないのだ。

そもそも、人は意志が弱いものだ。

悪い習慣よりも、良い習慣の方が、身につきづらい。

諸説あるが、物事を習慣化するまでの日数に、21日要するとの研究もある。

このように、習慣化は難しいにも関わらず、

初めのハードルを高くし過ぎるので、続きづらいのではないだろうか。

 

では、どうすればよいのか?

私は、可能な限り、簡単な行動から始めることを勧める。

例えば、毎日筋トレする!を習慣化したいのあれば、

まず毎日5分ストレッチするとか、毎日1種類だけトレーニングする、などである。

もし行動してみて、それでも継続できそうにないのであれば、都度調整する。

例えば、毎日10秒間だけストレッチしてみるとか、

一回だけ椅子から立ち上がってみる、とかでもいい。

0→1にすることが大切である。

0→1ができれば、1→10、10→100と増やしていくのは、そこまで難しくない。

いきなり0→100にしないこと。

0→1の1が、どんなに小さい一歩であっても、

その一歩がなければ何も始まらないので、とても重要である。

「千里の道も一歩から」である。

【動画レビュー】ローランドのポテサラ問題|筋肉つけるのリサのため/THE ROLAND SHOW【公式】


ローランドのポテサラ問題|筋肉つけるのリサのため

 

概要

ローランド氏が、ディレクターや視聴者からの質問に答えるもの。

当記事では、以下3点に焦点を当てる。

①ポテサラ問題(2:20〜)

以下ツイートが話題となったが、これについてのローランド氏の見解を問うもの。

 

②ルール問題(6:52〜)

黒染めを強要する教師に関連して、ルールとは何かを問うもの。

 

③筋肉について(10:33〜)

ローランド氏のトレーニングについて、最終的にどういう肉体になりたいかを問うもの。

 

気づき

①ポテサラ問題

私は、この問題をネットで見かけたとき、なんてひどい男性なんだ、

ポテサラくらい買ったっていいじゃないか、と思っていた。

ポテトサラダは、労力の割に、献立のメインにはならず、

他にもおかずを作らなければならないため、買いたい気持ちはわかる。

そして、お子さんがいるんだったら、なおさら面倒に感じるだろうなあ、と考えたのだ。

しかし、ローランド氏の言葉を聞いて、ポテサラを買うことの是非について議論することが、そもそも間違っていたのだと気付かされた。

ポテサラくらい作ったらどうか、という考えも、

惣菜で買ってもいいんじゃないか、という考えも、どちらも正しいし、

どちらも間違っていない。というより、どっちでもいいのだと言う。

白が好きな人もいれば、黒が好きな人もいる。

各々意見を持つことは自由だが、相手に意見を押し付けるのがよくない。

私は、知らず知らずのうちに、ポテサラを作る・作らないという小さい問題について

考えてしまっていた。

しかし、確かに話題になった男性の意見だって、意見を持つのは自由である。

このことを忘れずに、意見を持つことと、押し付けることの切り分けをしなくてはならないと、痛感した。

 

②ルール問題

 私は、出身中学・高校がかなり厳しく、意味不明な校則が多かったため、

無意味なルールについては、かなり批判的な意見を持っている。

母校にある、意味不明な校則の例としては、以下の通りである。

・肩に髪の毛が接触したら、(結ぶのがかなり不自然な状態であっても)結ばなくてはならない。

・ポニーテール禁止

・爪は(深爪が危険な状態であっても)、白い部分が残らないように切らなければならない。

これは、ほんの一例である。

著しく風紀を乱すことであったり、人を傷つけるようなルールであれば納得できるのだが、

これらはそれに当てはまらないだろう。

それに関しては、ローランド氏も同意見のようだ。

そして、そこから発展して、ルールについて肯定的な発言をしているのが心に残った。

俳句が何文字でも使って良かったら、そこにロマンはない。

5・7・5という制約の中で、工夫するから面白い。

ルールというのは、創造の源でもある。 

確かに、制約や抑圧があることで、逆にクリエイティブになれることはあると思った。

例えば、校則が厳しいけど、その中でいかに可愛く見せる工夫をするか、ということや

限られた時間やお金で、いかに自分のやりたいことをやるか、

ということが挙げられると思う。

思えば、学生の頃、お金はなかったけれども、

その中で工夫して、毎日を楽しんでいたように思う。

むしろ、お金が多少ある今のほうが、良くも悪くも制約がないため、

創造的な過ごし方ができているのかは疑問である。

制約や制限は、必ずしも悪でないことを学んだ。

 

③筋肉について

トレーニーあるあるの、「何目指してるの?」という問いに切り込むもの。

これについてのローランド氏の答えもまた、トレーニーあるあるなのだが、

最終形態というものはなく、常に昨日の自分よりも、今日の自分を良くしたいという

一心で取り組んでいるという。

私もトレーニーなので、同様の質問をされることが多いのだが、全くの同意見である。

(もうその体型で充分なのに)何目指してるの?というニュアンスでよく聞かれるが、

そもそも、これで充分という概念自体がない。

この人みたいな体型になりたい、というものもない。

なぜなら、人によって骨格や脂肪が付きやすい部位、体質などが異なるため、

努力しても他人のようにはなれないからだ。

これは、トレーニング以外の分野でもそうだろう。

誰かみたいになりたいというよりは、常に、昨日より成長した自分でいたいだけなのである。

終わりがないから面白い。

明確なゴールを決めたら、ゴールしてしまった後が怖い。

 

アクションプラン

①意見が異なる人がいても、好きな色の違いのようなものだと考える。

自分の意見を押し付けない。意見が異なっても、否定しない。

「みんな違って、みんないい」

制約から生まれる創造性もある。

ルールというもの自体が悪と決めつけない。

創造的になりたいときは、何らかの制約を課してみる。

明日はもっといい女になる、という終わりのない目標に向かって、

日々、自分を更新し続ける。

【書評】凪のお暇/コナリミサト

概要

節約が趣味のOL:大島凪(主人公)が、会社を辞めて、田舎のボロアパートで生活を始める。

無職期間のことを「お暇」と表現。

同じアパートの隣人たちとの関わりを中心に、成長していく話。

随所に出てくる節約ネタも見どころ。

貧しくても、豊かな生活をしている住人たちの様子は、

ミニマリズムにも通じる物がある。

 

心に残った言葉と所感

映画ですよ 人生は

脚本・監督・カメラ・演出・主演諸々 全て自分

これは、主人公:凪の真上に住んでいる「吉永さん」という老女の言葉である。

彼女は映画好きで、自宅にホームシアター環境を作っているほど。

よく、自分の人生の主人公は自分、という言葉があるが、

それ以外に監督や演出も自分という考え方に惹かれた。

各々が好きなジャンル、粋と思うジャンルに寄っていくし、

自分が見たいものを、好きなように編集していく。

人生(映画)に正解はない。

結局のところ、自分の一度きりの人生、自分が好きなように生きていくことが

大切なわけだし、自分しか自分の人生に責任は持てない。

一日一日を映画に見立てて、どういう角度でカメラを向けるのか、

どの部分を切り取り、どういうテイストのものにするのか。

考えながら過ごしていくと、違った景色が見えそうである。

 

若いからって可能性は無限大じゃないよ

私がなりたい何かになるためには、まずそれが何なのか選択しなくちゃいけないし

然るべき、努力の積み重ねが必要だと思う 

これは、主人公:凪の隣に住んでいる、

「白石うらら」という小学5年生の女の子の言葉である。

母子家庭のためか、年の割にはしっかりしている印象の人物だ。

「若い≒可能性は無限大」という常識(?)を疑っているところが、興味を惹かれる。

主人公:凪は、うららと比べて、自分は可能性があまりないと考えているようだが、

実際に、「可能性」に年齢は関係するのだろうか?

私は、年齢を問わず、人の可能性はいつだって、無限大だと考える。

もちろん、今から頑張って、オリンピックに出場できるか?

アイドルになれるか?と考えると、それに関してはNOである。

しかし、若いからと言って、頑張ればオリンピックに行けるわけじゃないし、

売れっ子のアイドルになれるわけでもないのだ。

うららが言う通り、選択した上で、努力し、その上で、才能がモノを言う。

その条件が揃ったならば、確かに若い方にアドバンテージがある。

しかし、そうでない事の方が多いのではないだろうか。

若いから可能性が無限大、という言葉は、裏を返すと、

年を取ると可能性が狭まるということだ。

それは、私にとっては年齢を言い訳にしているように聞こえる。

いくつになっても、自分の可能性を信じて努力すること。

その大切さに、改めて気付かされた。

 

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

 

 

「三日坊主」は悪か?

「三日坊主」という言葉は、良くない意味で使われることが多い。

 

【三日坊主】

あきっぽくて何をしても長続きしないこと。また、そのような人のことをあざけっていうことば。修行に耐えられず、三日で還俗(一度、出家した者が、再び俗人に戻ること)をしてしまう僧侶の意から。 ー学研 四字熟語辞典

 

しかし、三日坊主は本当に悪いことだろうか?

そもそも、何かを継続する際に、毎日行わなければならないというルールはないと思う。

もちろん、毎日行うことが、習慣化への最短ルートであることは否定しない。

ただ、せっかく三日続いたにも関わらず、たまたま四日目、何らかの事情で続けることができなかったとして、「三日坊主に終わった」という思いから、もうやめよう、となるのはもったいないと思うのだ。

三日続いて、一週間空いたとしても、一ヶ月空いたとしても、それ以上の年月が過ぎたとしても、また再開したのなら、それは「継続」である。

やめてしまうより、はるかマシ。それくらいの、ゆるい気持ちで構えたほうが、結局続くこともある。

「細く長く」上等である。

 

ウィズコロナ時代の幸せ

本記事を書いている2020/7/30、

東京都の新型コロナウイルスの感染者は367人と、過去最多を記録している。

全世界では、1700万人を突破したという。

このウィズコロナ時代の到来に伴い、人々の生活は大きく変わった。

 

私が特に変化したと感じるのは、「幸福」のあり方である。

多くの人は、「消費」することで幸福になれると考える。

例えば、お金を払って旅行へ行く、美味しいものを食べる、素敵な洋服やバッグなどを購入する、など。

しかしそれも、この状況下では、なかなか、ままならないと思う。

まず旅行。

国内旅行においては、gotoトラベルキャンペーンなどもあり、できないことはないだろう。

しかし、どこか室内に入るたびに検温などが実施されているだろうし、以前と同様に楽しむことはできないと思う。

インスタで「映え」な写真をアップすることも、気が進まないだろう。

海外旅行については、この先、何年も楽しむことができないと想像する。

続いて、グルメ。

マスクを外し、飛沫が飛ぶことを避けられない飲食店も、いまや気軽に楽しめる場所ではなくなった。

人を誘うときも、各人コロナに対する捉え方や、過敏具合にも差があるため、誘いづらい。

最後に、ショッピング。

洋服や装飾品などは、自分の好み以外に、どこかに遊びに行くことや他人目線を意識して、購入することが多い。

前述の、旅行や食事に行く機会が少なくなるということは、洋服や装飾品などを必要とする機会が減るということである。

また、どこに行ってもマスク着用のため、着飾ってもイマイチ決まらないので、おしゃれのやる気が出ないという声も多い。

マスクで隠れるので、口紅等の売上も落ちているという。

 

このように、お金を持っていても、楽しめる場所が激減しているのだ。

数々のイベントも中止になっているし、この状況では都会に住むメリットも小さくなる。

私は、都内での社会人経験を経て、現在は人口50万人前後の地方住まいである。

地方は、もともと娯楽施設や、イベントごとが少ないため、

そこまで生活スタイルには変化はないが、都会特有の楽しみを満喫していた人が、暇を持て余してしまうのは想像できる。

 

お金では「幸福」を買えなくなり、暇を持て余した人間は、どこに「幸福」を見い出すべきか。

それは「創造」であると考える。

具体的には、料理、工作、音楽、描画、執筆など、何かを生み出す行動である。

 

家の中でできる消費行動には限りがあるし、飽きが出てくる。

しかし、このような創造的な行為は、いくら追求しても終わるということがないので、

飽きることも少ないだろう。

世の中的に「陰キャ」と呼ばれる人々は、もともと家の中で過ごすことが多く、

コロナ前より創造的な活動をしている人が多いため、自粛中も特に問題なく過ごせたという。

 

このように、消費せず創造することによって楽しめる人、幸福を感じられる人が、

ウィズコロナ時代であっても楽しく生きられると思う。

筆者は、自粛で暇を持て余したことをきっかけに、当ブログを開設した。

また、幼少期に習っていたピアノを、ふと、もう一回弾いてみたくなり、電子ピアノを購入。

しかし、みんな考えることは同じで、楽器類は軒並み在庫切れ。

購入したピアノは、到着まで約1ヶ月かかるらしい。

暇を持て余すと、人はやはり創造的になるようである。

 

 

 

 

 

【書評】ぼくたちに、もうモノは必要ない。/佐々木典士

私は、もともとゆるいミニマリスト(モノを必要な最小限に減らす生き方)でした。

根の性格が面倒くさがりなので、たくさんの物を管理できないというのが

一番のきっかけです。

物を所有すればするほど、整理整頓や、掃除の時間が増えますよね。

また、買っても買っても、すぐに次に欲しいものが出てきて、

いくらお金を使っても満足できないということを、

無駄に感じたということも理由のひとつです。

物を捨てることに、あまり躊躇しない性格なので、

ミニマリストという考えを知ってからは、どんどん部屋の中の物を減らしました。

とは言え、ゆるいミニマリストなので、部屋に全く無駄なものがないという

わけではありません。

この本は、そんな私が、よりミニマリズムについて深く学ぼうと思って選びました。

 

気づき

私は、ミニマリストとは、何かがきっかけで目覚めて、

行動することによって、一部の人間だけがなるものだと考えていました。

しかし、この本に「誰もが最初はミニマリストだった」という

考えが書かれてあり、前提が異なることに気づきました。

そもそも手に何かモノを握りしめて生まれてきた人は1人もいない。

だから生まれたときは誰しもがミニマリストだった。

必要以上のモノを握りしめるたびに、ぼくたちは自由を奪われていく。

確かに、私たちはもともと何かを持って生まれてくるわけではありません。

成長する度に、色々なモノを手にしてきて、

それが幸せであることもあるけれど、足かせとなる場合もあると感じます。

「モノ」に囚われてしまうことの一番の弊害は、

ある「モノ」を手に入れれば、幸せになると思ってしまうこと

だと思います。

この洋服を手に入れれば、バッグを手に入れれば、車を手に入れれば…

等々、一旦「モノ」が手に入ったとしても、欲望はどんどん増幅し、

結局はいつまで経っても、満足ができなくなっていきます。

生まれるときに「モノ」を持たずに生まれてくる私たちは、

死ぬときもまた、「モノ」を持って死んでいくわけではありません。

そう考えると、「モノ」に依存した幸せは、脆く儚いと感じました。

 

印象に残った言葉

われわれは、幸福になるよりも、

幸福だと人に思わせるため、四苦八苦している(ラ・ロシュフコー

人にこう「見られたい」を意識して、物やサービスを買う。

昨今はインスタグラムの流行もあり、写真を撮って発信するという目的のために

お金を支払うことも少なくありません。

しかし、常に他人目線を意識していると、自分がなくなってしまうような気持ちがします。

「幸福」は個々人の感じ方次第なので、他者を介在させず

自分の納得感を追求したほうが、幸福になれると思います。

 

お酒は幸福ではなく、不幸の一時停止。

以前は、毎週金土は必ず、飲みに行くというような生活をしていたことがありました。

ひどいときは、毎晩のように安い缶チューハイを開ける日々も…。

お酒が本当に好きな人は、それ自体を楽しんでいるかと思いますが、

当時の私は異なりました。

何か問題を抱えていたり、忘れたいことがあって、

お酒を飲んでいたんだと思います。

それでリフレッシュできて、また前向きに頑張れるのであればいいのですが、

現状は何も変わっていないので、キリがないんですよね。

お酒に逃げずに、現実に向き合わない限り、

不幸は一時停止のままです。

 

人の感情には限界がある。

1万円の指輪と5万円の指輪。

5万円の指輪が、1万円の指輪の5倍嬉しいわけではないし、

喜びの笑顔が続く時間が5倍になるわけでもない。

人の感情に限界があるため、

新しいモノを手に入れたときの喜びは、

小さなことで感じている喜びと、大差がないといいます。

喜びが、価格に比例するものではないとしたら、

見栄などで高いモノを買い続けることが、無駄なように感じてしまいます。

「幸せ」に重点を置くと、モノを買わなくとも、

日常の小さなところに、たくさん転がっているはずです。 

 

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

  • 作者:佐々木 典士
  • 発売日: 2015/06/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「複数の柱」を持とう

私は、人生において、「複数の柱」を持つと生きやすくなると考えています。

「複数の柱」とは、自分が取り組む事柄、所属するコミュニティなどを定義します。

例えば、メインの仕事Aとサブの仕事B。

趣味Cの世界と趣味Dの世界。

自分の家庭、離れて済む家族、友人との人間関係。

 

従来から、一つのことに集中して取り組み、極めることは、

素晴らしいこととされてきました。

確かに、一つのことに全リソースを投入すると、何かと並行して進めるよりも、

一見は効率良く感じるかもしれません。

しかし、これはかなり危険なことと言えます。

人生、何があるかわかりません。

努力してもどうにもならないことはたくさんあるので、

リソースと成果が比例しない可能性は、大いにあります。

そのときに、一つのことしか取り組んでいないと、

うまくいっていないときに逃げ場がなくなります。

 

私は、結婚してしばらく、専業主婦となっていた期間があります。

結婚と同時に仕事を辞めたので、友人ともなかなか会えません。

また、都会で楽しんでいた多くの趣味を、引越し先の地方では楽しめなくなりました。

つまり、依存先が「家庭」の一つしかなかったのです。

自分なりに、工夫して取り組みましたが、相手がいることなので、

うまくいかないときも当然あります。

そのときの絶望感は、思い出すだけで寒気を感じますし、

人生で最も辛い時期の一つでした。

 

このように、一つに絞るということは、依存と執着を生みます。

人は依存する生き物なので、依存すること自体はやめることができませんが、

依存先を複数持つことで、人生がかなり安定します。

仕事Aはうまくいかないけど、仕事Bは順調。

家庭はうまくいってないけど、素敵な友人がいる。

といった具合で、なにか一つの柱が倒れても、他の柱が自分を支えてくれます。

依存先は、たくさんあるに越したことはありません。

 

あなたの依存先はいくつありますか?

私は、もっともっと依存先を増やしたくて、日々挑戦を続けています。

何かいい趣味などがあったら、ぜひ教えていただきたいです。